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色々な人の癌の体験談

日本では毎年多くの方が癌で亡くなっていますが、その経緯や事の顛末は十人十色です。

一人で悩みふさぎ込んでいるとついつい気が滅入ってしまいますが、そんな時は色々な人の体験談を聞くと勇気が沸いて気持ちがだいぶ楽になります。

そこで、ここでは当サイト管理人の私が集めた癌の体験談をご紹介します。まだまだ5人分と少ないですが、何かの参考になれば幸いです。

癌の体験談1.ステージ3の大腸がんだった母の奇跡の生還

がんの体験談
A・Tさん 40代
埼玉県 会社員

きっかけは15年前、母が血便を出して病院を受診したことでした。

「触診のあと、担当医の顔が一気に険しくなった……」と母は言いました。すぐに内視鏡検査が行われ、1週間後には入院するようにと言われました。その時の母の真っ青な顔は今でも鮮明に覚えてます。

病名は大腸がん。もう少しで腸に穴が開くところだったと言います。ステージ4に近い3だと聞かされた時は、最悪のケースを覚悟しました。

それからすぐに手術の予定が組まれ、家族の立ち会い、更に診察室での説明が行われるとのことで父が話を聞きました。

6時間半に及ぶ手術の結果、無事に患部の切除に成功、本人も無事だと聞かされた時は涙が止まりませんでした。

医師からの説明によると、がんの出来ていた部位の切除に加えて、転移が予想されるリンパ節の切除も同時に行ったとのことでした。

手術と入院生活の間、母は20kg痩せましたが何とか体力を保ち退院するに至りました。

大腸がんが肝臓へ転移

最初の手術から、毎月1回の定期健診(血液検査、MRI)をしていたのですが、1年ほどたったある日の検査で、癌が肝臓に転移していることがわかりました。

何事もなく、見た目は回復して母も元気だったので最初のがんが見つかった時よりも絶望したことを覚えています。私は「なぜ母ばかりが……」という思いで世界なんて今すぐ終わってしまえばいいのに、とさえ思いました。

しかし、今度も運よく全摘を免れる位置に転移したことがわかり、すぐに手術の日程が組まれました。肝臓の3分の1を摘出する手術が行われ、再び入院生活が始まりました。

病状は大腸がんの時よりもつらかったらしく、看護師長さんから泊まり込みでの看病を勧められました。

聞き取れるギリギリのかすれた声で起こされ、背中をさすったり乾いた唇をタオルで濡らす夜が続きました。

それでも母は歩行器につかまって毎日リハビリを頑張っていました。その姿に私は逆に励まされながら病院と家を往復する生活を乗り切りました。

輸血の拒絶反応もなく、術後の経過も良好ということで退院が許可された時の喜びはひとしおでした。

何よりも母の頑張りがもたらした結果でした。

抗がん剤治療の開始

しかしながら、今回の転移にあたり、抗がん剤の服用が医師より提案されました。

抗がん剤に対するイメージはあまりいいものではなかったので、母はもちろん私も強い抵抗を感じました。それでも根治するのであればと服用をすることにしました。

そして、再び日常の生活に戻ったのですが、ある日買い物に出かけた母から電話がかかってきたとき、私は大きなショックを受けました。意識が朦朧としているのか、ろれつの回らない声で助けを求めてきたのです。

慌てて迎えに行き、すぐに安静にさせたのですが、薬の副作用で気持ちが悪くなっていたようです。

あまりのつらさに母は抗がん剤の継続を拒絶しました。その時母が飲んでいたのは一番軽い抗がん剤だったそうですが、それより軽いものは無いということで服用は中止されました。

それでも、また平穏な日常が戻ってきたので抗がん剤がなくてもよくなったのだと思っていました。

肺への癌の転移

肝臓の手術から半年ほど経った定期健診で、今度は肺への転移が認められました。

がんになったことのある方ならご存知かもしれませんが、がんの転移は徐々に体を上がってくるのだそうで大腸、肝臓に続いて肺までやってきたということでした。

肺がんが今までで最も危険なものだと思っていたので、万が一全摘になったらもう何不自由なく過ごせていた日常は戻ってこないだろうと覚悟しました。

しかし、ここで幸運に恵まれました。何と転移した部位は内視鏡手術が可能だったのです。

メスを入れるのと内視鏡を入れるのでは負荷が全く違います。手術の計画を説明され、今度もきっと大丈夫だと母にも自分にも言い聞かせました。

今までで一番シンプルな手術でしたが、今回は肺ということで2日間集中治療室に入ることになりました。

しばらくは呼吸器が外せない生活が続きましたが、何とか乗り切ることができました。

大腸がんから奇跡の生還

5年前、母は寛解を宣言されました。現在では待望だったがん保険にも加入できるようになりました。

今でも当たり前のありがたさをかみしめて生活しています。母は宝くじを買うのが趣味で、いつも「宝くじが当たらない(笑)」と自虐っぽく嘆いています。

そんな母に、私は「この10年の奇跡が宝くじで一等賞みたいなもんだからいいでしょ(笑)」と、いつも言い聞かせています。

癌の体験談2.母が「子宮体がん」になってからの生活

がんの体験談
Y・Mさん 20代
埼玉県 事務員

私の家族は大きな病気をしたことがありません。癌家系の方はよく癌になる可能性が高くなるから気をつけてと言われますが、私の家系に癌で亡くなった人はいませんでした。

だから癌になる可能性があるとしてもおじいちゃんやおばあちゃんくらい歳を取ってからだと勝手に思いこんでいました。

母に子宮体ガンが発覚

ある日母が「閉経しているのに出血が止まらない。いつもと違うから産婦人科へ行ってくる」といいました。その時は母も私もちょっとホルモンバランスが乱れただけだから気にする必要はないだろうと思っていました。

ですが帰ってきた母はすごく心配そうな顔をしながら、「大きな病院に行けと言われた。それも癌センターだって」と言いました。

私はすぐにパソコンを開き癌について検索しました。パソコンには癌センターを紹介されたからと言って酷いという訳ではなく軽度の場合も沢山あると書かれていました。

それを見て私の母がまさか癌なんてありえない、きっと大丈夫だろうと軽く考えていました。ただ、何もしないのはどうかと思い、それから半月後、母を連れて癌センターへ向いました。

たくさんの検査を受けて診察室へ呼ばれ出た結果はステージ2の子宮体癌でした。その時は目の前が真っ白になり自分の母親がまだ40代なのに癌になるのかとすごくショックを受けたのを覚えています。

子宮体がんの手術と治療

それからはとにかく時間が経つのが早かったです。母親は40代後半で子供もいたので子宮全摘の手術を受けることにしました。

手術を受ければ大丈夫だと先生に言われこれが終われば心配事も無くなると思っていました。でもやはり母は自分の体の中から子宮が無くなってしまう事にショックを受けているようでした。

今まで母が悲しんでいる姿を見たことが無く、本当は辛いんだろうに一生懸命笑顔を作ってる姿を見て私は涙が止まりませんでした。

そして2週間の入院、手術は無事に成功しました。

がん転移の可能性。抗がん剤治療の開始

無事に手術も終わり私たち家族は安心していました。その後母は定期的に病院で検査を受けていました。

でも、病院の先生から「手術をしてから半年後の検査で転移する可能性があります」と告げられました。というのも、血管に癌細胞が見つかったからです。そして念の為にと抗がん剤治療を勧められました。

母は毛が無くなるのが嫌だからと治療を拒んでいましたが家族が説得し治療を受ける事になりました。

抗がん剤治療は3週間に1回投与しそれを6クールやります。初めは副作用もほとんどありませんでしたが3クール目くらいから足がだるくなり歩くのも困難になりました。

現在も抗がん剤治療中で日に日に顔色も悪くなるし、髪の毛は全て抜け落ち、体力的にも辛そうです。でもこれが終われば転移の可能性も減ると分かっているので家族皆で支えあって母を助けようと思います。

ガンで家族の絆は強くなった

家族ががんになるのはとても辛いです。

でも、母が癌になって家族皆が家事などを協力してくれるようになりました。辛くてずっと涙を流していた時もありましたが、今は皆で乗り越えようと前向きに考えられています。

母が癌になってから私たちは一段と絆が強くなったように思います。癌との闘いはまだまだ続きますが、私も母も、負けずに頑張っていきます。

癌の体験談3.酷すぎるガン担当医に唖然…

がんの体験談
K・Hさん 40代
群馬県 自営業
※本人の諸事情により目線は伏せさせて頂きました

もう父は亡くなりましたが、最初に父から癌の告白を受けた時には私達家族はそれ程ショックは受けませんでした。

なぜなら父は慢性の肝炎を若い頃から患っており、いつ癌を併発して亡くなってもおかしくない状況で生活していたからです。

当時の父は会社は既に定年まで勤めあげていましたし、私達も成人していました。それで安心して気が緩んでしまったのか、肝炎から癌を併発して東京にある癌の権威の大病院に入院する事になりました。

家は埼玉だったので移動するのにも一苦労でした。入院して一週間後に癌の切除手術をして、暫くは経過観察で入院です。術後の父の様子を見に行くのにも時間がかかって大変だったのですが母は文句も言わず毎日の様に東京まで通って父の面倒を見てくれました。

私は仕事もあった為、たまに様子を見に行くだけで大して何もしてあげれなかったのが今となっては悔やまれます…

肝臓がんの手術は成功。しかし……

急変もなく手術は成功…と思われたのですが全身調べたら、何と大腸にも癌が。そしてすでに癌のステージは4だと医師に言われました。

御存知の方も多いと思いますが「ステージ4」とは癌の一番悪い状態の事です。そんな状態になるまで何で発見出来なかったのかと担当の医師に聞いた所、その医師はとんでもない説明をし出しました。

「僕は肝臓癌の専門ですから大腸癌は担当じゃありませんので」

こう言い放ったのです。父の癌の告白の時より、この発言にはショックでした。患者は医師に命を預けているのに「自分の担当ではないから知らない」と、その担当医は言ったのです。

これは本当にショックだった上に、こんな医師が癌の権威である大病院にいるなんて信じられませんでした。そしてドラマに出てきそうなこんな酷い医師が本当に実在するんだなと呆れもしました。

大病院から地元の小さな病院に転院。そして・・・

こんな患者もしっかり診れない医師がいる病院に父を入院させているのが腹立たしくなり、母と相談して医師に「通うのが大変なので地元の病院に紹介状を書いてくれないか」と転院を申し出ました。

大病院ですから入院患者の数には困ってなかったようでアッサリと地元の埼玉の病院宛の紹介状を書いてくれました。そして地元の病院に転院してみて、対応の差に驚くしかありませんでした。

若い担当医の方は自分のミスでもないのに「癌の発見が遅れたそうですね。僕達医師のミスです本当に申し訳ない」 と謝罪して下さったのです。前の担当医とは大違いです。

その担当医さんが大腸癌の手術もして下さったのですが、発見が遅れた癌は色々な所に転移していて大きな癌を切除しても、あまりもたないかもしれない…と担当医さんは丁寧に説明してくれました。

でも、その転院先で看護師さんや担当医さんが父が亡くなる最後まで丁寧な対応をして下さったので家族としては安心してお任せできました。

この件を通じて、私たち家族は医者とは何なのか?どうあるべきなのか?という点について深く考えさせられました。

そして「もし、家族の中でまた癌が出たら次はすぐに地元の病院に駆け込んで、あの大学病院には絶対に近寄らないようにしよう」、と話し合ったのでした。

癌の体験談4.医者の忠告を無視し続けた父の最期

がんの体験談
S・Oさん 40代
千葉県 左官

私の父は五年前に大腸がんで亡くなりました。最終的には肺炎という形で来世へと旅立って行きました。

父の癌が分かったのは、検診に父が病院に行った時に、「レントゲンの結果なにやら腸に薄い影のようなものがある」と、行き付けの病院での先生に当時言われたのがキッカケです。

ただその時は癌という言葉は直接父には言われてなかったようです。それでその時先生からは、「再検査を次回やりましょう」と言われて、次回来るようにとのことでした。

ところが、私の母の話によりますと、後で分かったことなのですが、父は再検査を受けなかったそうです。一年くらいそのままにしていたわけなんですね。よくもそうしておいたものだ…と、思いました。

本人には特別に自覚症状はありませんでしたし、いたって調子はよかったようにしか周りのものは思えませんでした。まさか癌などと考えもつかなかったものです。

便秘から始まった体の異変

しかし、そんな状態がいつまでも続くはずがあるわけありません。父の容態は突如悪くなるということはなかったのですが、徐々に悪い方へ傾きだしていきました。

まず不調は便秘から始まりました。便が出ないということではなかったのですが、排便量が異常に少ないと自分から訴えていたのを覚えています。

それからどのくらい経ってからでしょうか。ようやく病院へ行きだしました。先生から再検査を受けなかったことを注意されたとかは無かったそうですが、先生からすれば、それ見たことか!言わんこっちゃない、という感じだったでしょう。

排便量が少ない原因が単なる便秘ではないと分かったのは、病院に通いはじめてから10日くらい経ってからのことだったように思います。

大腸がんの発覚

そしてある日の朝、遂に父のお腹を激痛が襲いました。父はうずくまり、病院へ連れて行ってくれ!と私たちに必死に訴えたのです。

朝の準備をしていた私たち家族は突然の出来事に焦りました。慌てて車を出して、父をみんなで病院に抱え込んだのを思いだします。

行き付けの病院では急きょ応急手術がされました。そして術後の先生の話に驚かされました。それは大腸内に大きな腫瘍があるとのことでした。

突然、大きな腫瘍がある、と言われてもまだ家族はこの時は癌だとは思ってもいませんでした。そして、そのあと先生が、うちの病院では処置できないので国立の病院へ搬送します、と言ったのです。

この時ばかりは目の前が暗くなりました。私と妻は、父を乗せた救急車のあとを自家用車でついていき、国立病院に到着後、父は検査を専門医の先生に受けました。

結果、ここで私たち家族はようやく父が大腸がんであることを知りました。この時は、そんな馬鹿な、という思いと、やっぱりか…という諦念が交じり合って何とも言えない気持ちでした。

医者の忠告を聞いていれば……

その後、父はほどなくして他界しました。本人もこうなることは薄々感じてはいたはずです。しかし、医者の忠告を無視して検査を拒んだ理由は最後まで明らかにはされませんでした。そこだけは私の中に何とも言えぬ歯がゆさというか、心残りでした。

がんは虫歯と違って放置するとダイレクトに命に関わります。医者の話はきちんと聞かねば・・・そう痛感した父の癌体験でした。

癌の体験談5.何気ない雑談からの大腸癌!

男性アイコン
T・Mさん 60代
山梨県

クルマで40分程の所に住む姉夫婦の家に私は月に2・3度顔を出していました。弟である私も姉も共に70歳に近づきつつありましたので、顔を合わせると話題はいつも孫の話か健康の話でした。

その日もそんな話題の中から「人間ドック」の話となり、それを受けた姉が検便結果で潜血反応があったそうで大腸の内視鏡検査を受けることになったと話をしだしたのでした。

最初私は、痔か何かだろうと言って笑っていたのですが、自覚症状は無かったの?と尋ねた時に「そう言えば以前急激な腹痛があった」と姉が言った時にはイヤな予感がしました。

その予感はビンゴでした。

姉の大腸がん。それもステージ4

内視鏡検査によって発見された大きな大腸ポリープは大腸癌でそれもステージ4でした。

すぐに入院してPET検査などの精密検査が必要とのことでした。検査の結果から、癌は他の数カ所にも転移していることが分かりましたが、取り急ぎ大腸癌の手術をすることになりました。

ほんの1週間前に笑って話していた姉がステージ4の癌。信じられない思いで姉の娘に医師の見解を確認してみたところ「何もしなければ半年・・・」との答え。

まずは手術で大腸の一部を切除し、人工肛門を取り付けることになりました。説明を受けた姉は、かなりのショックな様子でしたがステージ4なので他に選択肢はありませんでした。

手術そのものは無事に終えたのですが、流動食から固形物へと食事の内容が変わった矢先に腸閉塞を起こし、退院は延期となってしまいました。結局は流動食に逆戻りした状態での退院となり、自宅での流動食生活が始まったのですが、暫くして再度腸閉塞を起こして再入院。

その際に医師の判断によって点滴のみの生活を指示されてしまいました。

点滴生活。しかし・・・

胸の上部に点滴用のポートを取付け、そこからの点滴液を主たる栄養源として暮らす生活が始まりました。口からの飲食は、飴玉やチョコレート、そしてサラッとした飲み物だけになってしまったのです。

そんな生活を始めてから数ヶ月経った時でした。胸のポートから細菌が体内に混入したことによって高熱を発し、再度入院することになってしまったのです。

人間ドック受診時には約50㎏あった体重が、半年経過した時点では35kg程になっていて、これには絶句しました。

腸閉塞や感染症の治療はその都度適切に対処することは可能です。しかし、癌が身体の数カ所に転移してしまっている状況では治療といってもは「もはややることが無い」とのことです。

私は胸が締め付けられる思いがしましたが、姉はその言葉の意図するところを十分理解して、最近は達観すらしているように見えます。最初の手術を受けてから1年経った今も点滴を受けながら入院中です。

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